当社を設立した経緯(小栗の場合)
私の思い(プロフィール)
私は、学生運動の終焉期の大学生として、都市の勉強を始めた。自動車が一挙に普及し、都電廃止のニュースを喫茶店のテレビで見た。それが歴史なのだと思った。
しかし、衝撃を覚える様々な経験を経て、人と車と都市の関係を変えねばという思いが生れ、そのための働き掛けをしてきた。新会社での仕事は、私の人生の最終解答(final answer)であり、それが次世代に受け継がれる成果を生むよう、取り組みたい。
□1969年 あるくまちの提案
最初の衝撃は、私が生まれ育った故郷の駅前商店街の道路拡幅事業が人々の負担になり、犠牲者が生れていると知った時だった。1969年。その年の北海道旭川で買物公園の実験が鮮明な記憶となっていて、私は、車をシャットアウトする「あるくまち」を提案した。大学の友人たちも一緒に行動してくれたが、22歳の若者の行動は未熟で、既定の道路拡幅計画を覆すことはできなかった。
□1972年 駅広場歩行者デッキ
しかし、それから3年後、大学院時代に書いた市民懸賞論文が一席になり、10年後、JR三鷹駅南口に、2階を歩行者用とするデッキが生れた。これは「あるくまち」の提案の派生物だった。
□1982年 ソフトカーの構想
アメリカ留学から帰った筑波大学講師時代に「ソフトカー」のアイデアが生れた。研究学園都市は、自動車でしか移動できない人工空間で、死傷事故が連続した。私は、運転の時はソフトドリンクをと訴えるキャンペーンを始めた。その中で、「制限速度を外部に表示し、アクセルを踏んでも制限速度を超えた加速ができない車」のアイデアが生まれ、これを「ソフトカー」と名づけて提案した。
□1983年~ セゾングループでの歩車共生のまちづくり
ソフトカーのヒントになったのは、オランダのボンエルフ(woonerf、生活の庭)の考え方だった。ボンエルフの住宅地を日本で最初に作ったのはセゾングループ・西武都市開発(後の西洋環境開発)だった。1983年、私は大学から転職して同社に入社した。
最初の仕事が、京都の住宅地・桂坂のマスタープランづくりで、私は、ボンエルフに合わせて、複数の戸建て住宅が集まって通過交通を排除するクラスター開発を提案し、これが実現した。
1988年、北九州門司港のレトロまちづくりに参加し、古い船溜まりを残すべきだという私の提案が北九州市長を動かし、港湾計画は撤回された。船溜まりの中心に門司港ホテルが地元資本でつくられ、周辺には歩行者用の跳ね橋もでき、観光客は60万人から300万人となった。
セゾンでのプロジェクトは、他に、筑波博での仮設リゾート村、新広島空港周辺開発、モスクワオフィスビルなどがある。そして、1995年に独立し、セゾンの友人たちとまちづくりコンサルティングの会社を運営した。この時期の仕事は必ずしも歩車共存と関わったものではなかったが、構想を現実にするプロセス(組織内意思決定、官民関係形成、資金調達など)についての貴重な経験となった。
□1997年 姉の死
自転車でパート通勤中の姉が軽乗用車に跳ねられて死亡した。交通被害が自分の家族にも及ぶ、ソフトカーを実現せねばと考えた。
□2000年~ ソフトカー、そして、ソフトモビリティのプロジェクト
2000年、千葉商科大学への赴任の機会に、「ソフトカーと安全な交通システム」の研究提案が、政府の公募ミレニアムプロジェクトのひとつに採択され、車載装置の開発、学市街地での走行実験、国際交流、産官学の研究会を進めた。1人乗り電気自動車に装置を組み込んだ「ソフトQカー」が2005年に愛・地球博のパレード車となり、2006年から、交通被害家族の皆さんとの交流がはじまり、それは国境を越えた。そこまでの経緯を2009年の著作[1]にまとめた。
その後、速度制御の対象に自転車・バイクも含め、また、歩行者にも認識できる「ソフトモビリティゾーン」の構築が必要という考えが生れ、この展開を、2021年のレポート[2]にまとめた。このレポートは、国土交通省が2019年に「自動速度制御装置(ISA)ガイドライン」を出し、その経緯を尋ねたことが契機としてとりまとまたものだった。
[1] 小栗幸夫『脱・スピード社会 まちと生命を守るソフトカー戦略』清文社、2009年
[2] 小栗幸夫“ソフトカーとISA(自動速度制御装置)”(2021. 8) https://drive.google.com/file/d/1paIAeNiXIyrUd_3ohRNXUUoAqU8sB2dm/view?usp=sharing
□ 2017年~ 新会社Soft Mobility Initiative へ
- ソフトモビリティの考えを社会に実装するベンチャーの考えは私自身にあったが、それを押したのが関水信和氏だった。同氏の働きかけで、2017年に、「速度表示警告装置」を特許申請した。
2021年6月、アクセル・ブレーキ踏み違えを議論するweb会議に参加した。私は、2005年、ソフトQカーで踏み見違えの経験をしていて、踏んでいるペダルがアクセル・ブレーキのいずれかが視覚でわかる装置のアイデアを持っていたので、それを紹介したところ、そこに強く反応したのが会議の主要メンバーの高木太郎氏だった。そこで、関水氏、そして、岩倉洋平氏[1]にも参加いただき、「アクセル・ブレーキペダル検知表示装置(愛称 ABOiD)」の検討が始まり、その実現のために新会社を設立した。
新会社設立後、2022年3月15日に「速度表示警告装置」が特許として認められ、同月末日にABOiDの特許申請をした。
[1] 2020年に香川短期大学中俣保志教授とともにお招きいただき香川西讃地域でソフトモビリティゾーン設定の可能性を協議した。
□ 私の思い
私は、以上で、都市計画の勉強を始めた時期からのことを会社設立の背景として書いたが、第2時大戦終戦直後に生まれた私の幼少年期の記憶は、道路と車とともにある。
生まれ育った駅前商店街の道路はこどもの遊びだった。しかし、小学校5年生の時、一緒にサイクリングで遠出した同級生がトラックに跳ねら、重傷を負った。近所の若者の暴走運転で死亡が報じられた。実家の写真館を継いだ兄がトヨタコロナを買って営業用に使い始めたことを誇りに感じ、それから一年も経たないうちに、ほとんどすべての商店が車を持つようになったことに驚いた。
そして、道路拡幅を進めた商店街は、いまや、完全なシャッター商店街である。
人と車と都市との関係を変えねば、という思いは、大学で学んだからでなく、私の生い立ちに根差し、深い。それゆえに、Sott Mobility Initiative での仕事は、会社での仕事である以上に、社会遺伝子づくりだと私は思う。
この新会社立ち上げに、思いをともにする人たちを得たのは幸運だが、さらに遡ると、私の故郷の家族、友人、先生、そして、大学以来の恩師、同僚、知人から学んだことは限りない。新会社での仕事にも同様な支援を得て、成果をあげたい。